ハルちゃんへの手紙
2008年01月11日 (金) | 編集 |
わが家の大切な一員 ハル。

黒猫なので、画像ではどこがどこやら わからないですが。。。(^^;)

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危機感がないというか、安心してしまっているのか、ソファでぐっすり眠ってて 首筋を撫でたぐらいじゃ起きません。

『せっかく寝てるのに うるさいなぁ。。。』とでも言ってるみたいです。

でも、人が近くにいないと寂しがります。

           はる0


娘の友達が車に引かれていた子猫を拾って病院に連れて行き、仕事で引き取りにいけない友達のかわりに引き取りに行って そのまま我が家で暮らすことになったハルです。

いろんなことがあったけど、また新しい年を迎えることができたね。
今年はあなたのお友達のネズミクンの年だよ。
お祝いしなくちゃね☆☆( ^-^)∠※.・:*:・`☆、。・:*:・°`★

ただ残念なのは 【ネコ年】てエのがないことね〜。
しかたがないからネズミ年にネコも一緒にお祝いしましょ♪ (^-^)

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☆☆☆大切な心の友ハルへ☆☆☆

あなたが我が家に来たときは,まだ目も開いていない赤ちゃんだったね〜。
ウンチも自分の力で出せなくって私が教えてあげたんだよ〜。

        私の手のひらに乗るほど小さかった。。

我が家に来たときは後ろ片足を切断し、おなかにも2箇所 穴が開き、この仔は生きていけるんだろうか。。。と とっても心配したんだよ。

目が開いて、あちこち歩き回るようになっても切断した足は包帯もすぐに取れてしまい、歩くたびに血がにじみ、家中のあちこちに血が点々と。。。

あなたが我が家に来る前年の秋に建てたばかりの家だったから、お父さんはとっても嫌がってたね。
でも、あなたのことが嫌いなんじゃないのよ。
可愛いけど、どうやってその気持ちを表現したらいいのか 分からないだけなの。

              不器用なのね。
  
              許してあげてね。

 

毛が長くふさふさしていて 長い尻尾がとってもだ優雅だけど、見かけによらず野性的で気が強い頑張りやさんなのよね。

3本足というハンデがありながら、恥ずかしがるネズミクンを無理やり連れてきたり、すずめちゃんまで拉致してきたりと 結構おてんばなのよね〜。

どこかの若者が誘いに来てもすごい剣幕で追い返し、いつだったかは深追いして帰ってこずに心配してたら、次の日 雨のなかをずぶ濡れで帰ってきたときは本当にびっくりしたんだよ〜。

牙が1本折れ、あごの骨が折れて顔の形が変わるほどの大怪我をして。

あの時はあごにピンを2本も入れる手術をして、後でまたそのピンを抜くためにまた手術をして、辛かったよね〜。

わたしね、思ったのよ。

どうしてこの仔が何度も怪我をするんだろう。。。って。

きっと私たち家族の誰かの身代わりになっているんじゃないだろうか。。。って。



だからとっても申し訳なくって、ハルちゃんを大切にしなくっちゃ☆って思ったの。


でも、だからって猫であるハルちゃんを縛り付けるようなことはしたくない。

       猫は本来 とっても気まぐれなものだもんね。



昨日もどこかの若者が誘いに来てたみたい。
もちろんハルちゃんは怒って追い返しちゃったけど。


      見かけが若いからみんな勘違いするんだよ。(^m^)
         罪つくりだね〜、ハルちゃんは♪


猫の13才といえば人間だと結構なお年よね。
私を追い越しているかも。。。

いつまでも『可愛い♪』じゃなくて、これからは少しいたわってあげなくては。。。
近頃はちょっと動きが鈍くなってきたみたいだし。

ソファの背にまたがってウトウトするのが好きなハルだけど、この前はうっかり眠ってしまって落っこちちゃったね。
怪我をしなくて良かったけど、人間だったらこの高さのベッドから落ちたら、骨折してるよ〜。
少し気をつけようね。

    ハル02


そろそろ 自分の年を考えて あんまり無茶してはだめよ。
少しお外に行くのも控えめにしようね。


         あなたの存在にいつも癒されています。

         あなたの存在をいつも感謝しています。

                  だから

             いつまでもそばにいてね♪







悲しい思い出。
2007年07月07日 (土) | 編集 |
今日は7月7日。七夕ですね。

近年 7月7日はたいてい雨でした。

毎年のように『今日も星は見えないね〜。』と言っていたような気がします。

でも今日は快晴です。
とってもいいお天気。

夕方7時半頃出かけた先であまりに山がきれいだったので、車を止めて携帯でパチリ☆
この画像ではあまり良くわかりませんが、空の色もとってもきれいでした。

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でも、今日7月7日には悲しい思い出があります。



もう25年ほども前になるでしょうか。
主人の無二の親友が事故でなくなった日です。

一人っ子の主人はその友人を兄のように慕い、心から頼りにしていました。

2人でいる所には 私でさえその場に入っていけないほど気持ちが通じ合っている仲のよさでした。

『この雰囲気は何?』って疑いたくなるほどに仲が良かったです。

 そこには 阿・呍 の呼吸がありました。

その2人を見て 『本当の友人ってこういうものなんだ。』と感心したものです。




その友人が渓流釣りに行って 7月7日の未明に車ごと川に転落し、亡くなりました。

知らせを受け、別の友人と渓流釣りに行っていた主人に連絡が取れないため(当時は携帯もありませんでしたし、あったとしても電波の届かない場所だったでしょう。)私は実家の父に道案内を頼み 車を走らせました。

今は世界遺産として登録されている白神山地の林道。
もちろん今は車では入れなくなっている場所です。

車一台がやっと通れるほどの山道を、運転の不慣れな私が『どうして。。。どうして?」とつぶやき、震えながら運転しました。

今考えると よくあんな山道を運転できたものだと思います。
それほど必死でした。

やっと現地に到着し主人とも合流できたとき、遺体はすでに引き上げられ搬送されていました。

深く冷たい、透明な薄緑の川の中に友人のジープが沈んでいました。




あれから25年も過ぎると言うのに、この日が来るとやっぱり友人のことを思い出します。

そして 今年は明日の日曜日、主人は渓流釣りに行きます。

         お線香を持って。。。

                 




青春って。
2007年03月26日 (月) | 編集 |
石川県の今回の地震で被災された方々に 心からお見舞いを申し上げます。





めっきり春らしくなりました。


今週で3月も終わり。


4月はいろいろな人生の春をスタートされる方がいるんでしょうね〜。



私も数十年前、集団就職で上京した 団塊の世代の一員です。


今はこうして故郷に帰り、結婚してふるさとで根を張り、ここで骨を埋めるつもりでいますが、
人生 何があるかわかりませんね。

もしかしたら、海外移住。。。な〜んてこともあるかも。。。(#^.^#)(おそらく無いでしょうけど)



そう、数十年前   

高校卒業と同時に両親の反対を押し切って東京のあるデパートに就職を決めた私は、他の仲間たちと一緒に夜行列車で上京。



新入社員は1ヶ月間の社員教育を受けたのち、それぞれの支店に配され、職に就いた。


寮には 北海道から鹿児島までの出身者がいて、それぞれの方言も面白かった。



各部屋は3〜4人ずつで先輩が一人ずつ各部屋に配置され、後輩の生活の指導に当たった。


そんな先輩も3年目くらいになると、たいていは寮を出てアパートで一人暮らしをはじめる。


ほぼ半数が社内結婚をしていた。


私ははじめは川崎の支店に配属になり、そこで1年。

その後、なぜか目黒の配送センターの事務に配属された。

そのときに覚えかけた事務の仕事が面白く、もっと事務を勉強したいと思い、通信教育を受け始めた。



そんなときに渋谷に支店ができ、店舗に配属。


担当は紳士服だった。


紳士服もなかなか面白かったけれども、せっかくはじめた事務の勉強が中途半端になってしまい、とても損をしたような気持ちだった。



そんな時、お店に来るお客さんに声をかけられ、銀座のとある事務所に思い切って職を変えた。



初めての転職。


当然 寮を出てアパートに移る。初めての一人暮らし。


アパートの場所は川崎だった。

初めての勤務地が川崎で土地勘があったのと、都内より川崎のほうが家賃が安かったから。。。



銀座は華やかな街。だけど昼と夜の顔がまるで違う。

そんな銀座が大好きだった。

お休みの日でも銀座に出たくなるほど、魅力のある街だった。(今は知らない)



恋人の一人もできず、ほとんどアパートと会社の往復だけ。


たまに、ウインドゥショッピング♪


以前の会社でも、友人と呼べる友人はたった一人しかできなかった。

その友人は今でも交友があり無二の親友になっている。


その友人も私より早く違う会社に転職していたので、たまにしか会えなかった。

今のように携帯電話があるわけでもなく、連絡もなかなかできなかったから。。。



それでも一人暮らしは楽しかった。

会社の仲間がステキだった。

それぞれひとクセもふたクセもあるような 訳ありな連中ばかり。\(◎o◎)/


そんな中で22歳の私は、まるで赤子だったようだ。


そこでの3年は私にとって人生の宝となった。


あの頃に覚えた事務の仕事が、今の私の土台になっている。

初めに面接に行ったときに応対してくれた係長が言った言葉は、



「この会社の仕事は普通の事務ではないけれど、この仕事を覚えれば一生 喰っ逸れない。」


すごく印象に残っている。

仕事は銀座のクラブの経理事務。

本社が六本木にあって、銀座の事務所は昼(本社)と夜(店舗)のつなぎの役目。

ひとつのビルに8店舗のお店があり、事務所には各店舗のそれぞれの担当事務員がいた。

私が担当する店舗は8階だったが、お店には入ったことは無い。(入ってはいけない事になっていた。)

今考えると、こんな若い娘にお店のひとつを任せてしまうなんて、(もちろん総括は部長や課長がいたけど)すごい会社だと思う。

私が両親に説得され、故郷に帰ってからはずう〜っと東京に行く機会も無かった。

3年ほど前から自由に動けるようになっていて、たまに東京へ行くときは必ず銀座へ立ち寄るが、その会社は今は無い。。


ちょっと寂しいが、私の大切な一番楽しかった頃の思い出☆






お彼岸におもう。
2007年03月21日 (水) | 編集 |
暑さ寒さも彼岸まで。


暖冬と言われながら寒さが長引いているようですが、いよいよ少し暖かくなるでしょうか?



さ〜て、お彼岸です。

今日はお墓参りにいってくる予定です。

お花を買って、お菓子を。。。と思っていたところ、

東京の知り合いが ちょうどいいものを送ってくれました♪



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   栗最中










早速、お仏壇に供えましょう。


我が家のお仏壇には舅と姑が入っています。

姑と舅は生きていた頃はなんだかんだとあったけど、夫婦ってやっぱり夫婦なんだなぁ〜って、思うのです。




もうかなり前のこと。

姑がもう長くないことを知った時、舅が会いたいと言ったので病院に連れて行ったことがありました。

舅は脳出血で一度倒れてから介護が必要な体だったので、頻繁に見舞いに行けず、これが最初で最後かもしれないと言う気持ちで行ったのです。

でも、そのときの姑の態度に周りのみんなが驚きました。

もうほとんど口もきけないほどの状態だったのに、舅の顔を見たとたん怒り出したんです。

そばにあったティッシュペーパーの箱をぶつけて ”くるなー!”って怒鳴ったんです。


私に ”なんで連れてきた!!!”って怒るんです。

”早くつれて帰れ!”って。。。

看護婦さんも ”顔が見たいってせっかく会いに来てくれたのに〜。”って言ってくれたのですが、姑は”絶対イヤだ!”って言うんですね。



ホールで舅はオイオイ泣いていました。

あの時は本当に舅がかわいそうでした。




でもね。。。



あれからもう17年。




いまはもう舅も亡くなりましたが、あのときの姑の気持ちがなんとなくわかるような気がします。




姑には はっきり言って いじめられました。

とてもひどいことを言われました。

本当にひどい人でした。


でも、近ごろやっと そのお陰で今の私がいる☆って 思えるようになって来ました。




本当はとっても優しい人だったのかもしれない。

寂しがり屋でいつも自分の事を見てほしかったのかもしれない。

そんなふうに思えるようになって来ました。



そんなふうに思えるようになってきたのは、私があの頃の姑の年齢に近づいたからなんでしょうね〜。(#^.^#)




ちなみに 舅は姑が亡くなってから4年後に亡くなりましたが、その日は姑の命日の前日なのです。




けっきょく 仲が良かったんですね。



本当はとっても舅のことを思っていたんだろうな〜。。って思うんですよ☆(◡‿◡ฺ*)♥♡









ピアスに思う。 成せばなる☆
2007年01月16日 (火) | 編集 |
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私が若い頃、そう 昭和の時代。
バブル全盛期の頃、銀座でOLをしておりました。

こんな田舎のオバチャンにも、若い時代はあったのです。




OLと言っても普通の事務ではなく。



あるクラブの経理です。

       

勤務時間は午後2時から夜8時まで。



でも たいてい朝10時頃にはみんな出社していて、お昼ともなると近くのデパ地下でおにぎりやお惣菜を買って、みんな(6人)で机を寄せ合ってワイワイ食べていました。


それが1日のスタートです。



午後になると次長や部長が出社してきて、月に一度はミーティングと称して、部長のおごりで近くのレストランでランチです。
お昼ですが、ビールやワインも始業前に飲みましたね〜。

時間的に、仕事帰りにみんなで飲みに行こう〜♪が、できなかったので、いつも始業前でした。(#^.^#)


毎日が楽しかったです〜。



その頃、可愛がってくれた私が担当するお店のチーママが、ピアスをして、私にも勧めてくれました。

あの頃はピアスをしている人は まだあまりいなかったですね〜。



お正月に帰省したときに何気なく父に『ピアスって言うのがあるんだよ☆』って言ったときに、猛烈に父に叱られました。


    『親からもらった体に 傷をつける気かー!!』  
  
     いや、あの、そんなおおげさな。。。


      
 
いまなら言えますがね〜。
あの時代はさすがに言えませんでした。

父は父なりに私をとても心配していたんですね。
それはわかっていましたから。σ(´∀`;)



その後、数年たって帰郷して結婚し、子供たちが大きくなって ピアスの穴を開けるのを見て、ああ!こんなことがあったっけ♪と思い出していました。


そして もうこんな年だから。。。と、諦めていました。



インターネットのあるサークルのメーリングリストに入り、そこの皆から勇気やら 元気やらをいただき、気持ちも若く(?)なってきた頃。。。

「いい年だからこそ 自分の思ったとおりにできるんでしょう!」と娘に背中を押されて 


気持ちがグラッ。



         おだてられちゃった☆

       その気になっちゃった〜♪ (単純)




よし!やろう♪

ピアッサーで だれにもナイショで 一人で



           バチン!☆ 
    

ついに やってしまったよ〜。
はじめてやりたいと思った日 あれからいったい何年が経った?




やっと叶った♪


やってみたら、何てことなかった。
でも少しは人生変わったかも。。。


       

今年はもっと人生を変えてみたい☆
         

     もっと行動あるのみ!



父の愛情。
2007年01月15日 (月) | 編集 |
前回も書かせていただきましたが、私は かなりスパルタで育ちました。

父には随分ぶたれてきました。
子供心にも、なぜか弟はあまりぶたれなかったことに不信感を持ち、母に聴いたことがありました。

母の答えは。。。
『あなたが自分に似ていて、自分のコンプレックスをあなたが見せるからイラつくんじゃないの?』と言うものでした。

???(@◇@;) ウ・・・??
何もいえなかった 私。。。。。


でも高校を卒業と同時に上京を決めた私は、事後報告。
父は悩んだ挙句に認めてくれ、上京する私に言ってくれました。

『どんなつまらないような仕事でも、組織の中の一員として意味のない仕事などない。たとえお茶くみでも、美味しいお茶を出せるように勤めなさい。その心がけを忘れないように。』

心に浸みました。


約8年を東京で暮らし、勤めも川崎から目黒、渋谷までは同じ会社の中での転勤。
事務の仕事を覚えたかった私は、会社を変わり渋谷から銀座へ♪
銀座で約4年OL時代をすごし、その後両親の説得で帰省しました。

そしていろいろなことがあったけど無我夢中で今まで来ました。

年を重ねるにつれて 私の原点は父のなかにあることを感じます。

父が教えてくれたことすべてが、今 私の中で芽を吹き出し始めています。



父は私に とても厳しい人でした。

学校の成績が下がったといってはぶたれ、

食事中はひざを崩してはならぬ!

帰りが遅いといっては怒鳴られ。。。


でも、部活ではどんなに遅くなっても食事をせずに待っていてくれた。
忘れ物をバイクで学校まで届けてくれた。

私ががん癌検診で*甲状腺に異常が見つかったときは、ガタガタ震えるほどに心配してくれた。



脳梗塞で倒れた父を私が引き取るといったことに母が腹を立て、今はホームにいる父。

私のでしゃばりが原因で寂しい思いをしているだろうと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、元気でいてくれると信じています。


私がある仕事を始めようとしたとき、喜んで自分もやりたいと言ってくれた父でした。
あいにく、母の反対によりそれはかないませんでしたが、今までのお仕事の積み重ねの結果 オフィスを作ることになり、父の名前から一字いただきました。

ちなみに1月28日が父の誕生日。
この日を新しいオフィスの設立の日にしようと思います。




父の父が甲状腺でなくなっているので自分のせいだと悩んだそうなのです。
結果的に癌ではなかったものの、定期的に検査を受けていました。
病院の対応に不満を持った私は、数年間 検査を受けずにいましたが、思いもかけない事から 現在その厄介者はなくなっています。